ふるさとの思い出

このページでは、関東江津会の会員からの寄稿を掲載します。

ふるさとの思い出にふれてみてください。

 

このコーナーは皆様からの寄稿を募集しております。寄稿の方法については、「寄稿について」のページをご覧ください。

やはり故郷あっての私

 

 昭和33年に波積で生まれ、江東中学~江津高校卒業までの18年を過ごしました。幼少期から運動神経が良く、器械体操、陸上短距離などは大の得意でした。中学からは加えて柔道、神楽に夢中でした。中1では陸上400リレーで県大会。2年では柔道で、3年では両方で県大会に出場しました。今思い返しましても輝かしい中学生活でした。(今は見る影もない、ただのデブおじさんであります)。
 さて、高校卒業の後、上京し進みましたのが「書道専門学校」でした。小学校2年の頃から、森下東苑先生の書道塾に通いました。筋がよかったんでしょう!先生もいろんな事を教えて下さいました。中学からは小学生の面倒を見るとの条件で、月謝も免除の特待生扱いだったように思います。その甲斐あってか「競書、五風」では、高校生の中でNo.2になっていました。五風会では、普通の文字だけでなく「前衛書」を、多くの先生方が研究されていました。簡単に言えば、文字にこだわらず、◯や△を書いて紙面を構成し「気持ちを表現する」訳です。私も、高校の文化祭では少し広めに展示場所をもらって、「前衛?」作品を十数点展示しました。前衛では紙面を構成する造形が非常に大切だと思い、参考にしたのが「華道、池坊」の本でした。母が生け花を習っていて、本もありました。基本は真・副・体だと知り、これを基礎に書きました。この時の学びが非常に役に立っています。そんなこともあり、進学は「書道」以外には考えませんでした。
 さて上京し、学校に通いながら先輩の話を聞いたり、展覧会を観に行ったりし2年になり大変なことに気がつきました。
 「多くの人が書道を勉強してる。先輩も多い。自分よりも上手い人がいっぱいいる!とても追い越せない!」そう思いました。さてそれならどうする?そうだ「篆刻」を勉強しよう。人数も少ないと思いました。
 「篆刻」とは、簡単に言えば判子を作る作業を言います。書道や水墨画に捺す判子を、「印(イン)・雅印(ガイン)・落款印(ラッカンイン)」と呼び、主に篆書を用い、風雅で書や画にマッチした刻風を目指します。刻す材料を印材といいます。判子の材料は象牙、水牛、柘植、宝石(メノウ等)、合成材等ですが、我々は石です。宝石のように、美しく魅力的な石でありながら「自身の手で彫れる石」が、中国明代(1400年代頃・日本は室町時代)に発見されました。これにより文人は、書画に篆刻を加えて三絶と呼び、自身を表現する一分野となりました。
 さて、私は二十歳で本格的に篆刻の勉強を始めた頃、今も勤める店に入社しました。書道専門店として日本だけでなく、まだ珍しかった中国との直接貿易をしておりまして、これが最高に勉強になりました。その頃の書家は良く勉強し、本を読み込んで店に来られ、「硯のこの模様は本のこれか?」「この墨は古いが300年前のものか?」等研究されて納得して買って行かれました。品物も豊富にあり、契約は山買いもありました。良いも悪いも雑多です。その中から良いものを買おう!とするわけですから、先生方も勉強する。しかし私共も良いものは高く買って頂いて、雑多な物は安く売らなくては儲からない。そんな訳で負けじと勉強しました。
 数年し、中国に仕入れに行くようになりました。その頃は、町中でめぼしい品をトランク一杯買いますと、ビジネスクラス往復の飛行機代は賄えました。目利きでなくては出来ない仕事でした。一番儲かったのは、日本人の有名な篆刻家の「印」でした。町中の店の盆の中に古印材がゴロゴロ。見ておりますと、確かに印譜で見た印でした。日本円で500円もしたでしょうか。人差し指程度の大きさです。帰国後20万円で買って頂きました。勉強していた甲斐がありました。
 篆刻を学んで40年。2022年7月に個展を開催いたしました。題材は「正信偈」、構想から5年。コロナもあり江津での開催ができませんでした。数年後には、今度は江津で開催したいと思います。題材は石見神楽です。

 

柳原 勇

(2023年1月26日)

 

 

小宇宙「和木」での少年時代

 

 私は、第2次世界大戦が真っ最中の1943年(昭和18年)9月3日、父の赴任先の香港で生まれた。終戦直前の1~2歳の頃、敵の潜水艦に追われながら、母に連れられ、命からがら帰国して、高校を卒業するまで「和木」で育った。父は、終戦後帰国して、漁業会社に勤めたが、後に江津市役所に移り、定年まで勤務していた。母は、主婦兼農婦で和木婦人会長を長く務めていた。妹が2人生まれ、5人家族の平穏な生活が続いた。私の幼少時代は、思う存分遊んだという記憶しかないが、夕方になると、妹たちの面倒をみながら、竈に火をおこしてご飯を炊きながら父母の帰りを待つのが日課だった。
 私は、1951年(昭和26年)から1957年(昭和32年)までの6年間を江津市立和木小学校で過ごした。しかし、実のところ、私が初めて小学校に入ったのは、1950年(昭和25年)4月であった。その直後の6月のある日、朝から雨が降っていて、私は風邪気味で熱があった。母は、「風邪がひどくなるから休みなさい。」と言ったのに、私は強情に「行く。」と言って聞かず、無理やり登校した。その結果、風邪をこじらせて肺炎になり、肋膜炎を併発した。そのまま、休校して、自宅での長期療養生活に入った。その後、病気は悪化の一途を辿り、秋口には、絶望的な状況となった。私も、死期を悟り、「母ちゃん、死ぬんじゃないの。」と言っていたのを鮮明に覚えている。ここで奇跡が起こった。忽然として新しい特効薬が現れ、私は危うく一命を取り留めたのである。その後、家で山羊を飼い、その乳を飲んで体力を回復し、翌年、即ち1951年(昭和26年)の春から、一年下のクラスで再スタートを切ったのである。2年生の担任は、安達と言う女の先生だった。生徒一人ひとりに対する愛情が深かったためだろうが、生徒は、皆それを察して良く懐いた。安達先生からは、俳句の作り方を習った。それからは、折に触れて、良く俳句を作った。6年生の時、小学生新聞に載った「宮の山 椎取る子等の叫び声」や中学2年生の時、「中学時代」と言う雑誌に載った「電柱の取り換え寒し畑の中」は、この時の教えの賜物である。皆が慕った先生は、その学年が終わる前に、長尾家にお嫁に行くため辞めてしまわれた。列車で旅立つ先生を皆で追いかけたことは、映画の一シーンのように脳裡に残っている。その後も先生との繋がりは途切れることなく続き、先生が、我々の修学旅行先に幼い子供を抱いて来られたり、同窓会に参加されたり、大きくなった娘さんと一緒に和木に帰られたりした。私も伊豆の先生の嫁ぎ先のお寺を兼ねたお宅を2~3度訪問したことがあり、その都度歓待を受けた。
 5年生と6年生の担任は、山藤と言う若い男の先生だった。痩せてはいるが、やる気満々で、行動的だった。いつも明るく朗らかで、何事にも真剣だった。そのため、私も含めクラス全員から敬愛された。日展に作品を出す位の書道の達人だったが、書道以外にも運動を含むあらゆる創作活動に強い関心を示し、生徒一人一人の特性を見抜いて、それを伸ばしてくれたので、クラスは正に百花繚乱の趣を呈した。私にとって思い出深いのは、名詩の暗唱である。北原白秋の「唐松林」とか幾つかの名詩をクラス全員で暗唱させられた。その時は苦労したが、生涯の宝となり、私の情操を豊かにしてくれた。中でも島崎藤村の「千曲川旅情の歌」は、長くて覚えるのは大変だったが、大好きになった。今でも、折に触れて口ずさむことがある。明るい先生だったが、不正に対しては、厳しかった。私は、いたずら好きだったせいか良く怒られた。悪いことをしているとは思っていないのに、同罪の仲間と一緒に、教室の前に並ばされて、平手打ちを食らったことが何度かある。しかし、当時の私達は、純情で、先生はいつも正しいと信じていたので、先生を恨むことは、一度もなかった。
 山藤先生とは、その後も交流があり、帰省の度にお宅に伺って、酒を酌み交わしたし、何度か同窓会にも来てもらった。長尾先生(旧姓安達)とともに忘れられない生涯の恩師である。
 私は、1年上のクラスから来たので、一緒になったクラスの皆にとっては、最初からさぞかし異色の存在だったであろうと思う。そのせいか同じクラスの子供等とは、何となく馴染めず、いつも3年位上のクラスの生徒と遊んでいた。お互いの違和感が昂じた結果だと思うが、2年生か3年生の時、当時のガキ大将にそそのかされたクラスの男子生徒全員と毎日学校で喧嘩をする羽目になって、困ったことがある。この喧嘩が自然消滅的に終わった頃から違和感が薄れてきて、クラスの中に溶け込んで行けたように思う。
 和木は、海あり、山あり、川あり、池ありと自然豊かな「小宇宙」で、子供にとっては、天国だった。勉強しろと言われることもなく、放課後は、カバンを家に放り出して遊びに出た。
 春は、竹を切って来て、鳥籠を作り、モチの木の皮を剥いで磨り潰して鳥もちを作り枝に塗って、裏山で良く囀る「目白」を獲った。月遅れの雛祭りは、女の子の節句だのに、何故か男仲間だけで重箱を持って集まった。5月のロシア祭りの日には、運動会が行われたが、槇の葉で包んだ「まき」と呼ばれる餡の入った団子餅を食べるのが習わしだった。そこで、槇の葉を採りに山へ出かけるのだが、採れる場所は、秘密にしていた。
 夏は、朝から日暮れまで真島の周りの海にいたが、7月半ばに浜に舞台を組んで、石見神楽を勇壮に舞う「十七夜」の頃になると、山桃を採りに山へ入った。十七夜の夜になると、心地よい海風に吹かれて浜辺の砂の上で夜通し石見神楽を観ていたが、子供にとっては正に極楽だった。
 秋は、良く宮の山へ椎の実を採りに行った。「猿」と言うあだ名の級友は、実に木登りが上手く、彼が枝を揺すって落としてくれる椎の実を皆夢中で拾ったものである。秋祭りの石見神楽舞も篝火を焚いて幻想的な雰囲気の中で夜通し行われるので、好きだった。
 冬は、パッチ(めんこ)や独楽や凧揚げに興じた。雪が降れば手製の竹スキーで滑ることもあった。私には出来なかったが、屋根位の高さの竹馬を乗りこなす子もいた。
 いつも遊びに忙しく、暇を持て余すことは、絶えてなかった。パッチやラムネ等どのゲームも軽い遊びから始まって最後は「本気」と言って、本当に取り合うようになった。そうなると、学校が禁止する。しかし、禁止されれば、次のゲームに移れば良いので、全く困らなかった。これは、子供等と学校の間で毎年繰り返されるイタチごっこだったが、楽しかった。和木小学校は、全校で200人位の小さな学校だったが、「井の中の蛙大海を知らず」の喩通り、中学校へ行くまで和木小学校の校庭が他のどの学校より広いと思い込んでいた。クラスは、40人位だったが、男子がやや少なかった。男子の中には、ガキ大将も暴れん坊も身体障害者もいたが、皆純朴で優しかった。女子は、総じてしっかりしていて、優秀だった。ガキ大将の支配が長く続き、彼の統率の下に皆で山へ行き、チャンバラごっこをしたこともあった。6年生の時、クーデターが起き、彼の支配は終わりを告げた。
 和木小学校での6年間は、色々あったが、いつもドラマを観ているような躍動感があった。クラスには、不思議な一体感があり、卒業後もそれは続いた。良く同窓会で集まったが、いつもすぐ昔に戻れて楽しかった。大病のお陰で、40人の級友と二人の恩師に出会えたことは、私の人生にとって奇跡に近い幸運だったと思っている。
 臆することなく新しいことに挑戦する日々の中で培われた「ないものは作れば良い。」と言う思考パターンを含めて、後日、何の仕事をするにも、小学校時代の様々な経験が大いに役に立ったと思っている。

 

間宮 馨

(2022年5月10日)

 

 

船坂峠

 

 私は邑智郡桜江町長谷(現江津市桜江町長谷)で生まれ、高校卒業まで過ごしました。
 長谷は勝地、山中、八戸と長谷の4つの地域からなっております。長谷から市山・川戸方面へ、跡市・有福方面、旭町方面へ出るにはすべて峠を越える必要があります。特に船坂峠は江陵中学校へ通うにも、国鉄川戸駅に行くにも必ずこの峠を通りました。
私の実家はこの船坂峠の麓にありましたので、この峠への思い出を述べさせていただきます。


1.実家では牛を飼っておりました。小学校から帰ると、祖父と一緒に牛を連れて船坂峠に運動に行きます。牛の綱は私が持たされます。当時、船坂峠は県道で国鉄バスや車が頻繁に通っておりました。牛を連れて船坂峠を上っている4時頃、長谷発川戸行のバスが通るのですが、バスが牛の横をかすめるように通ると牛が恐ろしがって暴れだします。祖父からは、「鼻ぐり(鼻環)をしっかりもたんかー!」と叱られるのですが、非力の小学生には牛をうまく制御できません。この牛の運動は、今でも嫌な思い出です。


2.当時、桜江町駅伝がありました。桜江町の川越、谷住郷、川戸、市山と長谷の5地域での競走です。各家庭にあった有線で実況中継が流れておりました。長谷から市山方面へはこの船坂峠を越えるのですが、この峠越えを有線は「心臓破りの坂」と放送しておりました。


3.中学校へは、長谷地区の者はバスで通っておりました。朝の登校時の長谷から川戸方面へ、夕方の下校時の川戸から長谷へのバスは、この船坂峠の頂上で一旦停車します。「これからブレーキテストをします」との車掌さんからの案内があります。ブレーキテストが終わると、運転手さんが金槌を持って車外に出て、全てのタイヤのナットをカチカチと叩き安全を確認し、運転席に戻られるとバスは出発します。

年代的にバスの性能面もあったのでしょうが、この船坂峠はかなりの難所だったんだな、と思います。

今も、「船坂峠」と書かれた停留所の看板が残っております。


4.船坂峠の途中に、我が家の竹藪があります。春にはこの竹藪に筍を掘りに行きます。小学生の時だったと思います。祖父と筍を掘りに行って、猫車に山盛りにして帰る途中、ライトバンが止まり、祖父に「その筍をください。その代りこれを上げます。」といわれ、沢山の蒲鉾と交換した思い出があります。


5.その竹藪ですが、ある年の冬に大雪が降りました。バスの車掌さんは家に来られ「竹が雪の重みで垂れ下がりバスが通れない」との事で、祖父と私がノコギリを持って竹藪まで行き、垂れ下がっている竹を切ってバスが通れるようにしたことがありました。


6.中学校時代はバス通学でしたが、日曜日に部活があるときは自転車か、徒歩で中学校まで行きました。徒歩で行くときは、船坂峠から市山の間は小道があり、その小道を使いました。
行きも帰りも県道を通るより早く行き来できました。現在この小道は誰も使わなくなったのか、藪になっていますが、今も小道の入り口でお地蔵さまが見守ってくれています。
自転車で行く時は八戸川まで下り、八戸川沿いに行っておりました。帰りは、八戸川沿いは距離があり遠いので、市山から県道を自転車で上りました。一級上の先輩と、上までどっちが自転車から降りずに上るかを競争しておりました。上りの中腹に少しですが下りの部分があり、そこは一息つける場所でペダルから足を離して進む自転車で風を感じました。今もそこを通るときは当時を思い出します。


7.船坂峠を越えると市山地区には家が並んでおり、駐在所の前からは道路が舗装され、中心部にはガソリンスタンド、散髪屋、酒屋などがあり、長谷から船坂峠を越えて市山に来ると「街だなー」といつも感じておりました。


8.船坂峠の市山側は、日光いろは坂の様にくねくねとした道路です。現在この道路を見ると道幅が狭く感じられます。昔は国鉄バス、トラックやダンプ等の大型自動車も利用しておりました。当時の運転手さんの運転技術に感心いたします。


9.この峠道に差し掛かった所に、実家の葉タバコの乾燥場がありました。夏休みの土日はいつも手伝いでした。また、この道沿いに檜や杉の木が2~3メートル間隔で植えてありました。夏休みの最終日曜日は、この等間隔に植えた木に竹を横に10段くらい縛り付けてハデ場(刈った稲を掛けて干す場所)を作りました。稲刈りのシーズンは、その日に刈った稲は暗くなってもその日の内にこのハデ場まで負いあげて、ハデにかけて一日を終えておりました。

 現在、県道は八戸川沿いの道路が県道になりました。新しい県道はトンネルが開通し、ますます便利になったようです。今は、船坂峠を通る車は殆どありません。船坂峠を抜ける車は古いカーナビに誘導されてこの峠を越えるようです。
 お盆に帰省した折に、たまに船坂峠まで歩いて上ります。天気の良い日は西側の八戸口側、東側の市山側が良く見えます。
 もし、風の国、今井美術館等へ行かれる時には、この船坂峠をドライブしてみてください。その際はくれぐれも運転におきをつけて。熊や猿に出会うかもしれません。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

桜江町長谷出身 工村 修
(2020年12月24日)

 

 

変わりゆく江津

 

 江津では、高校卒業までの18年間を過ごした。以後、松江で1年、神奈川で4年、そして東京での就職と、今では江津を離れてからの生活の方が長くなってしまった。「ふるさとの思い出」となると、江津で過ごした18年間ということになるが、当時の江津を振り返ってみたい。

 

 実家は嘉久志町にある。実家の裏口を出ると今でも畑があるが、幼い頃は一面が畑で、土のあぜ道があった。そこを歩き、少し先まで行くと森のように木々が茂っており、その先に都錦の酒蔵などがあるのだが、当時はそこへたどり着くのもちょっとした冒険のように感じていた。実家の横には山陰線が走っており、昼前の貨物列車や朝夕に走る寝台特急を見ながら、今日は何両かと数えたりしていたのを覚えている。

 

 小学校は高角小学校。学校に続く坂道の手前には、江津警察署があった。この頃、江津で国体が開催され、現在の中央公園を中心に嘉久志町周辺が劇的に変化したのも何となくだが覚えている。普段は外で遊んでいたが、広場と言えば、昔の嘉久志公民館や嘉久志保育所だった。また、近所には模型屋もあり、祖母におねだりをしてよく模型を買ってもらっていた。グリーンモールができたのも、確かこの頃だった。

 

 中学校は江津中学校で、産業道路を歩いて通っていた。産業道路沿いの松林は幼少期の遊び場の1つだったが、冬場は部活で遅くなると真っ暗になるため、懐中電灯は必需品だった。また、中学校の前には紡績工場の跡地があり、コンクリートの壁の先には鬱蒼と木々が生い茂っていた。この頃になると塾で江津駅周辺へ、あるいは江川橋を渡り、渡津まで遊びに行くようになっていた。また、秋祭りの時期になると神社へ行き、神楽を見つつ夜遊びするのが楽しい時期だった。

 

 高校は江津高校。都野津まで自転車で通っていた。都野津までの産業道路の往復だったが、時折都野津や嘉久志の海岸へ行き日本海を眺めたりしていた。浜田方面から通っていた友人とも仲が良かったので、都野津駅での列車の待ち時間、隣接する瓦工場の敷地で時間つぶしに付き合ったりしていた。高校の校舎からも、周辺の瓦工場が見えていたが、都野津と言えば今でも瓦のイメージが強い。高速道路や江津駅前から移転した市民会館の建設が始まったのもこの頃だった。

 

 そして、江津駅から最初に寝台特急に乗ったのが最初の上京だった。当時はまるで異国に行くような気分だったが、その後、まさか東京で就職することになるとは、今となっては複雑な気分である。

 

 ざっと思いつくままに当時を振り返ってみたが、当時の風景と比べると江津は様変わりした。畑だらけだった実家の周りは民家やアパートが増えた。中学校も新しくなり、周辺に広がっていた紡績工場の跡地には、病院、警察が移転し、今後市役所も移転するそうだ。当時はなかったコンビニやドラッグストアなども増え、街の様子も大きく変わった。それだけ江津を離れての月日が過ぎたと言うことだろう。

 

 江津へは年2回帰省している。車で帰省するのだが、浅利のトンネルを抜け、江の川に近づくと真っ先に星髙山と製紙工場の煙突が目に入ってくる。山陰線の鉄橋を横目に江川橋を渡り、江津駅前まで来ると独特の形をした市役所が見えてくる。この風景を見ると、江津に帰ってきたのだと実感する。また、海もそれほど遠くないので、帰省して時間があると海岸へ行くのだが、西に見える真島や一部に残る砂浜、これらも昔と変わらない風景である。

 

 成人する前に江津を出てしまったため、江津駅前で飲み歩くことはなかったが、駅前も再開発が進み、街の風景はさらに変わろうとしている。ただ、江津に残った、あるいは戻ってきた同世代も少なくなく、そこから生まれる変化もこれから増えていくのだろう。今後、再び江津で暮らすことになるか、そこはまだわからないが、郷里、江津が今後、どのような変化を遂げていくか、これからもずっと見届けたい。

近重 圭
(2019年7月29日)

 

 

戦後のあの頃

 

昭和31年4月江川の畔にて

 

 

 終戦後、天津から引き揚げてきて、母方の里である江津で暮らし始めたのは昭和23年ごろでした。江津駅から徒歩3分、江川橋のたもとに実家がありますが、当時はまだ橋が架かる前で、駅に至る道路沿いにはプラタナスの街路樹がありました。自動車が走ることも殆どなく、家の前に涼み台を出して将棋盤をおき、近所の子供たちの集まり場所になっていました。
 江川橋が完成したのは昭和27年頃で、あの時は江津側と渡津側からアサガオ提灯を持って提灯行列をし、橋の真ん中の行き会った所で万歳三唱をしました。それを機に駅に至る道路がアスファルトになり、街路樹に替わって「すずらん燈」が設置され、夜道が明るくなりました。あの頃、山陽パルプの誘致が決まって、工場建設にあたっていた清水組の土方の連中が夜の酒場を賑わしていました。今から思うと、当時はまだアメリカの占領下にあり、戦後の復興に向かって国内の各分野で懸命に取り組んでいた時期でした。江津町にあっては戦前から産業都市を目指して取り組んできた片倉工業や日本レーヨンの誘致、そして島根化学と進んできた流れからここで大きくハンドルを切り替え、山陽パルプを中心とした県内でも有数の産業都市に生まれ変わろうとした時でもありました。片倉工業、日本レーヨンの2社は戦時中に軍需工場に切り替えられたという事情もあって戦後は整理され、島根化学は山陽パルプに吸収合併されました。今でもはっきりと記憶しているのですが、当時こんな唄が歌われていました。

 

川の流れに夜が明けて 江津の町に昇る陽は

明るい日射し産業が ここに拓けて朝が来る

 

江津の町民歌だったのか?……島根県民歌とちょっとリズムが似た勇ましい歌でしたが、幼稚園の遠足の時にみんなで元気よく唄いながら歩いたのを覚えています。
 当時の町の様子はというと、「ヤミ市」と言っていたところに「あけぼの館」という映画館やパチンコ屋が登場し、「ヤミ市」は「あけぼの通り商店街」と名前が変りました。やがてネオンサインの色も鮮やかな繁華街となり、隣接した山パルの社宅で暮らす人達の消費パワーに支えられて商店街が活性化していく様子をリアルに見てきた時代でもありました
 みんなが希望に向かっていた時代でしたが、一方で暗い思い出もあります。「兵隊さんの迎え」といって、戦地から生還してくる兵隊さんを江津駅頭に町を挙げて迎えに行っていた頃のこと、当時の駅舎は木造瓦屋根の古い建物でした。回覧板でお布令が回ってくるので、町の人達が駅前広場に集まって汽車の到着を待つのです。帰還した兵隊さんが駅の石段の上に立って「只今かえって参りました……」と叫ぶような大声で挨拶があり、みんなで「万歳、万歳」と連呼する前で「よう帰ってきんさった……」と言いながら町長さんが握手し、家族と抱き合う。あの光景を何度もこの目で見てきましたが、一方で我が家では母の弟が外地で現地招集されたきり消息不明で何の沙汰もない状態にありました。いつも食卓の脇に陰膳(かげぜん)を別に仕立てて叔父の写真の前に食事を供し、祖母は息子の帰還を信じて待っていました。結局10年後に戦死の公報が届いて、骨箱の中に位牌だけ納めての葬式でしたが、それを見届けて1週間後に祖母も後を追うようにして亡くなりました。今でも悲しい思い出になっています。
 平成の世も終ろうとしている今日、70年前頃のことを追憶してみましたが、古き昭和の江津の記憶を皆さまの心に留めて頂ければ幸甚です。

小林 敬明
(2019年3月15日)

 

 

私の生い立ちとふるさと

 

 ホームページ愛読者の皆さんこんにちは!
 私は黒松で生まれ高校まで黒松で育ちました。黒松は田んぼも畑もほとんど無く小さな漁村でした。小学校までは海で泳ぐことが唯一の遊びで、真っ黒に日焼けしていました。私の時代の父親は地元では仕事がなく関西方面に出稼ぎに行っていました。父は私が小学校5年生になってやっとシベリア捕虜から解放され、私のもとに帰りました。幼少に戦争で父と別れて育ちましたので父になじめませんでした。母が一人で私と弟を育て大学まで教育をつけてくれました。
 私の時代の母はたくましく、自立しておりました。その影響が有って私も自立した女性として育ちました。母は口癖に女性もお金を稼ぎなさい。そのために「家事ができないならば出来る人に頼めばよいのだ」と言って自分の能力に応じて生きることを示してくれました。
 母の教育方針は本当にすばらしいと思います。子供の性格や能力をよく見て、男女の区別なくそれに応じて指導してくれたことに感謝します。
 私の幼少時代は気が強く、自分が正しいと思ったことは、反対が有っても、自分の意思を通して行動していたようです。悪く言えば自己中心の考えだったと思います。その性格が現在の私の職業になったとものと思います。現在79才ですが弁護士として現役で働いています。私に相談する人は殆ど悩みをかかえている人で、相談時は非常に暗い顔ですが、その悩みを解決してあげると本当に明るい顔に変化して別人のようになっている様子がとても嬉しいです。
 黒松という小さな村の因習で強い田舎に育った私が自由に生きてこられたのは母のお陰です。ふるさと黒松、母は私の心のふるさとです。私は日本経済新聞の「私の履歴書」の記事が大好きです。
 最後になりましたが、関東江津会の中に女子だけの会(現在)発足させて一年になります。決まった会則も無く、女性会員の希望で日時、何をして楽しく過ごせたら良いか等合意で決めて、しばられることなく自由に楽しんでいます。それぞれ各人個性のある女性ですので、会員の仲間の雑談や食事の中で得るところが沢山有ります。若い女性にぜひ参加してほしいです。既に成立している集団に新しく加入することは勇気が必要かもしれませんが、勇気を出して参加してみませんか!

田島 恒子

(2019年1月1日)

 

 

さらば三江線 ふるさとは桜江川戸

 

 私が高校を卒業するまで住んでいたのは、広島県北部から三次を経て、日本海に注ぐ江の川沿の桜江町川戸です。インターネット上の航空写真をみると、山の間を江の川が蛇行しつつ、流れているようすがみてとれます。河口から遡り、はじめて狭いながら平地がみえるところ、支流八戸川との合流地点がそうです。それ程高くはないのですが、山また山の連なりに、地勢的環境を再認識しました。このような土地に育ったためか、東京の下町とか、周辺のまっ平らなところには住めそうにもありません。東京西部の多摩ニュータウンに住んでもう30年以上になりますが、冬の朝日をうけて秩父、甲斐へと連なる山並みの襞までくっきりみえる景色は気に入っています。
 子供の頃、夏休みといえば半日を川で過ごしていたので今でも、海より川への思いが強いようです。一方、江の川という大きい川と支流との合流点という地理的位置は、洪水の常襲地でもありました。いまでは川と地域とは高い堤防に隔てられ、以前のような川辺との親密さがなくなっているのは残念に思います。
 江の川沿いを走る三江線はこの3月31日をもって営業廃止となりました。昨年からTVやラジオの番組で三江線が取り上げられることが何回かありました。私の故郷、川戸駅も取材される機会が一度ならずあり、懐かしい顔が映っていました。私が通学していたころに比べると、もう何年も前から列車の本数は減ってきていましたが、時代の流れとは言え、廃線ということにはまた別の寂しさを感じます。地方のレベルでは50年以上前、昭和30年代から、人口減少ははじまっていました。岩波新書「日本の過疎地帯」(1968年発行)に詳しくレポートされていますが、島根県の人口は、昭和30-36年1%前後、37-38年1.5%前後、39年は2%と減少のテンポ
を速めていると記されています。昭和30-40年の減少率40%という村もあったということです。昭和38年のいわゆる「38豪雪」が拍車をかけたといわれています。人口の減少に加え、自動車の普及が鉄道利用の衰退に拍車をかけていったことは皆さんも承知されていることと思います。桜江町誌によると三江線の江津から川戸までの開通は昭和5年(1930)、それまで江の川を主としていた物資の動きに大きな変化をもたらしたと書かれています。鉄道の開通のもたらした変化は如何様であったか知る由もありませんが、私の子供の頃からでも、いろいろな変化は常に行われてきています。例えば、邑智郡川戸村から桜江村、桜江町、そして江津市へ、川戸、谷住郷、市山の3つの中学が合併し江陵中学、やがて長谷中、川越中が一緒になり桜江中学へ、また、昭和47年の豪雨後に行われた川戸の駅周辺部における堤防の嵩上げ、大規模な区画整理による地域の大きな変貌等々。とりとめのないことを記してきましたが、故郷のおだやかな暮らしと風景が続いていくことを願いつつ文章を終わりにします。

右田 宏記

(2018年8月24日)

 

 

不時着飛行機

 

思い出しました、遠い昔の事ことですから詳しいことは忘れましたが、嘉久志の新川河口近くの砂浜ではなかったかな、小型の飛行機が不時着したのを。

 日本海の荒波の打ち寄せるところから20メートル位の砂浜にその不時着した飛行機は有りました。

嘉久志の海岸は江津から和木にかけての一直線の何の変化もない白い砂浜でした。

 今の産業道路から当時の波打ち際まではかなりの距離が有りました、戦時中の物資にする松ヤニを取るために幹に斜めに切り傷の付いた黒松の防風林があり、それを過ぎると背の低い潅木があり、至る所に浜防風が生えており、そこを抜けて一走りしてやっと波打ち際でした。

夏泳ぎに行くときには砂が熱くて足の裏が焼けるようでやっとの思いで波の寄せる処にたどり着いたものでした。

子供ですからどう言う不時着事件だったか知りません、学校が終わると上級生、同級生の何人かでこの不時着飛行機で遊びました、初めの頃は大人も子供も大勢来ていましたが日を経るに従い来る人は少なくなりそのうち人は来なくなりました。

最初は完全な形をした飛行機でしたがその内、プロペラが無くなり主翼が無くなり主要な部品、計器が無くなりました誰かが解体して持って行ったのでしょう、残った機体も海から吹いてくる飛砂でかなり埋まりました、かなり長い期間、この飛行機の砂だらけの残された操縦席で遊びました、防風ガラスの破片は良い匂いがして宝物のように長く持っていたように思います。

 あの飛行機は最後はどうなったか知りません、こちらの記憶からも消えてゆきました。

浜辺には漁をする木造船が何艘も並んで置いてあり、漁をする時は漁師さんが大きな声で地引き網を引く人を呼んでいました、畑にいた人は畑をやめて綱を引きに駆けつけました、浜に出かけていって手伝うと獲れた魚を何匹か貰い家に持って帰ったものです、鰯の様な小魚は勝手に取っても何も言われた事はありませんでした。

そうそう浜には塩田もあって海水を煮つめる塩釜がある小屋もまだ残っていました。

 白砂、黒松の美しかった砂浜はすっかり狭くなり、現在は波打ち際の近くまで道が出来、海岸にはテトラポットが並び昔の面影が全くなくなったいのが寂しいです。

 もう60年以上も昔のことですから、でも故郷はやっぱり良いですね。

牛尾彰久

(2018年4月28日)